6月11日 岡林信康コンサート

フォークの神様、岡林信康はその昔、雲隠れしたという。

1969年、岡林は阜県恵那郡坂下町(現在の岐阜県中津川市坂下町)の椛の湖キャンプ場で「全日本フォークジャンボリー」通称「中津川フォークジャンボリー」に出演した。
フォークソングブームを支持する若者文化を受けて開催されたこのフォークフェスティバルは、当時の若者たちを大きく熱狂させた。高田渡遠藤賢司、つのだひろも参加していたジャックスなど、豪華な出演者の中でも岡林は多くの支持を受けていた。時代はフォーク、それも岡林が中心に立つフォークブーム。中津川フォークジャンボリーは大盛況に終わり、第二回が1970年に開催されることとなった。

第二回も、岡林はメインとなるステージに立った。バックバンドには「はっぴぃえんど」(細野晴臣松本隆大瀧詠一鈴木茂)を従えての、今思えば大変豪華なステージとなった。
しかし岡林は演奏しながら何か去年と違うものを感じた。若者が殺到していたのはメインステージではなくサブステージだったからだ。そのサブステージで人々を熱狂させていたのは吉田拓郎だった。
岡林は自分のフォークがもう昔のもので、新しい風が吹いていることを感じた。
以降岡林は表舞台からいったん姿を消した。

岡林は一体どこに消えてしまったのか。

岡林は東京でも、地元の滋賀でも、現在住んでいる京都でもなく岐阜県の山奥にいた。
フォークジャンボリーが行われた椛の湖キャンプ場から車で数分のしいたけ農家で、そこの2階の一部を間借りして静かに生活していた。フォークジャンボリーが行われなければ誰も訪れないようなしんとした田舎で、岡林はひっそりとギターを抱えて曲を作っていた。
天気のいい日は窓を開けギターをかき鳴らし、その声は川を挟んだ向こう側の小さなたばこ屋にも聞こえてきた。
何もない田舎では、その向かいの小さなたばこ屋が外の世界と岡林を結ぶ数少ない手段だった。岡林はよくそのたばこ屋に来ては酒屋にお酒を運んできてくれとか、たばこを1ダース欲しいとか、電話を貸してくれと店のおばさんに声をかけては用事を済ませていた。電話の相手は誰だったかは分からないが、東京の誰かに何か簡単な言付けをしていたようだった。
その向かいの小さなたばこ屋には高校生の娘がいた。彼女も世間と同じようにフォークブームに乗っていたので、岡林のことを知らないはずがなかった。彼女は躊躇しながらも岡林に色紙を差し出した。
岡林は色紙を手に取るとペンでさらさらとサインを書いた。「ありがとうございます!」と彼女が頭を下げると静かにしいたけ農家の2階へと戻っていった。彼女はドキドキしながら受け取ったばかりの色紙に目をやった。
色紙には「おいらいちぬけた」と書いてあった。
彼女にはその意味がわからなかった、どういう意味かも考えなかった。高校生の彼女には、フォークブームから、世間から、いろいろなものから「いちぬけた」という当時の岡林の気持ちを理解することはできなかったのだ。


ゼップ名古屋に行く車の中で、「でもねー」とお母さんは話し始めた。
「今だとおいらいちぬけたっていう意味わかるのよねー、そんなさー高校生のお母さんの頭じゃわかんないわけよ」
そうだねぇ、そんなにお母さん頭良くないしね。
「そうそう、だからサインもらえただけでラッキーって感じなのよ」
じゃあお母さん岡林見るのはフォークジャンボリー以来なの?
「ううん、学校がね、見ちゃいけないって言ってね。行って見つかったら退学だっていうの」
じゃあおかあさん近所でフォークジャンボリーやってたのに拓郎も岡林も細野も見てないの?!
「見てない。そういえばね、岡林が向かいのしいたけ屋に住んでたときに、よく東京の人が岡林のしいたけ屋はどこだって聞いてきたよ。有名な人だったかも、会いに来た人は。知らんけど」
もったいないね…
「そんなもんじゃないのー?だから岡林見るのはうちにたばこ買いに来た以来だね。お母さんね、もし岡林と話す機会があったらね、おいらいちぬけたっていうサインの意味やっとわかりましたよって言いたいのよね」
そんなコネないよ。
「そんなにあっちこっち遊んでまわっとるのにないの?意味ないじゃーんところでさ、ゼップってお酒売ってたりするの?」
あるよ、生ビールと氷結があったかなぁ…普通のペットボトルもあるよ。
「ホント?!じゃあ岡林見ながらビール飲んじゃお!!フンフンフーン!」